「ローラーボール」(1975)。
近未来、管理社会となった世界では、合法的に殺人ゲームが行われていた・・・
もうこれだけで中二病を熱くさせるものがありますよね。
僕もそんな設定に熱くなった一人です。(当時は小学生でしたが)
劇場では見れなかったので、サントラを買って、家で想像を膨らませてました。
(あらすじ)
近未来、世界は大企業群に統治されていた。その世界で人気を集めているのは超暴力的なゲーム「ローラーボール」。エネルギー企業が支配するヒューストンチームに所属するジョナサンは、得点王であり、世界的なスーパースター。しかし彼の人気を危険視する企業により引退を迫られるが、それを拒否。企業はジョナサンが試合中に死亡するように、ルールをどんどん暴力的に変えていくが・・・
円形状のトラックの上、ローラースケートを履いた選手は高速打ち出される重さ6キロの鉄球を奪い、ゴールに叩き込む。
選手はアメフトのようなヘルメットとプロテクター、鉄鋲が付いた手袋に身を包み、相手をなぎ倒していく。
このビジュアル、痺れますよね?(あ、僕ら中二病だけ?)
「ローラーボール」は世界を支配する企業連合が、大衆のガス抜きに行っているんです。
要は、「ローラーボール」の目的は大衆管理。
殴る蹴るの暴力OK。スコアボードには選手のライフステイタス(HPですね)が表示され、全部消えると赤ランプ(死亡)がつくという、バイオレンス度満載のゲーム。
だから同じ中二病のハートを熱くする「デスレース2000年」(公道レース中に観客を殺すとポイントになる/71975)みたいな、痛快娯楽作(?)を期待するじゃないですか。
でも、大人になってレンタルビデオで見た時、
面白いけど、ちょっとイメージと違うなぁ、
って思ったんです。
そして今回見直して、ああ、なるほどって思いました。
魂を燃えたぎらせる熱い映画ではなく、終始、ちょっとヒンヤリするような雰囲気。
ローラーボールのゲームのシーンは熱く盛り上がるし、長さも十分にあります。
でもやっぱり見ている僕は熱くなりません。
やっぱりヒンヤリ。
あの当時の感想は間違ってませんでした。
まず主人公。
ローラーボール界のスーパースター。
そんな設定から想像するのは「友情に熱く、ゲームでも率先してみんなを引っ張っていく親分肌。何事にも全力投球、ネバーギブアップ精神の塊」じゃないですか。
でもこの映画の主人公は全然イケイケじゃないんです。
寧ろ、淡々。
政治的理由から引退を強要されても、熱く犯行し過ぎず、淡々と「俺は背中で答えるぜ」みたいにゲームに出続け、エースの役割を果たすタイプ。
ゲームがヒートアップしても、どこか冷静で、チームメイトの親友が植物人間にされても、大げさに嘆かず、淡々としている。
淡々としているのは、ある意味、「デスレース2000年」の主人公フランケンシュタインと似てるんですが、あっちはニヒルな悪漢ヒーロー(死語?)なんで、全然タイプが違います。
寧ろ。会社に別れさせられた元嫁さんのことが忘れられず、いつも家では彼女のビデオを見ている方が彼の本質ではないでしょうか。
だって元嫁さんを戻してくれるなら、引退を受け入れてもいいって言っちゃうぐらい「ローラーボールより元嫁さんの方が大切」。
全てを捨てて、好きな女のために生きたい、っていうのは中二病のツボであるハズです。
でも何故、このキャラは中二病にツボらなかったのか?
それは心のどこかで嫁さんは戻ってこないと半分諦めてるから。
あきらめたらそこで試合終了だよ
安西先生もそう言ってるじゃないですか。
少年スポーツ漫画的には「俺はぜってー諦めねぇーっぞ!」っていうのが主人公の定番。
でも彼は「どうせ無理」って世間のことが嫌になっちゃってる。
彼にはそんな厭世観が常にあり、どことなく高倉健さんの世界に近いものがあります。
この複雑なキャラを当時売れていたアクションスターのジェームス・カーンが、私生活でのやるせない男と、ゲームでのスター選手を凄い上手に両立させてます。
映画は静かにスタッフが会場の準備をするところから始まります。
コースや機械のチェック等、ドキュメンタリー映画っぽいです。
リンクの状態を手で触ってみて確認するスタッフ。
手元ボタンを操作する審判員。鉄球の試射・・・
近未来という設定なのに、変にSF的なガジェット出てこないので、まるで今どこかで行われているリアルなスポーツの準備風景に見えます。
考えてみれば監督のノーマン・ジュイスンは、SF映画の専門家ではなく、良質な映画を作り続けて、何度もアカデミー監督賞にノミネートされる、名の知れた監督。
だからこの映画のテーマは、彼にとって「中二病を熱くさせる殺人ゲーム」ではなく、「企業に管理されたディストピア」だったんでしょうね。
だから彼にとってはローラーボールというゲームは、「企業の大衆管理の不条理なツール」という役割であり、「賛美されるゲーム」ではないということです。
主人公が引退を迫られるのも、「企業に逆らったから」とか「企業の秘密を知ったから」ではなく、単に「民衆の人気を集め過ぎた=企業より上の存在になる可能性が出てきた」という大衆管理上の問題です。
まさに政治批判的な映画が多かった70年代の香りがプンプンします。
面白いのが、この映画に出てくるのは、主人公を含め管理社会の中のエリート層だけなんです。
日々の生活は貴族的&享楽的。
反対にゲームに熱狂する大衆については、ほとんど触れられてません。
彼らが貧しいのか、搾取されてるのか、企業に不満を持っているのか、というのが一切なし。
普通こういうディストピア映画って、「個性を消された大衆」だったり、「抑圧された大衆」っていうのが出てくるじゃないですか。
の映画の大衆は、今の管理社会のままで、今まで通りローラーボールが見れればよいと思っているような印象です。
更にこの映画には上流社会にも「反政府的な不満分子」も出てこないんです。
「ディストピア貴族の平凡な毎日」ってことですね。
そういう点で、貴族映画っぽです。
優勝決定戦で一人だけ生き残った主人公に、観衆が彼の名前をコールするエンディングは、最後にちょっとだけカタルシスを感じさせてくれました。
この映画の特徴として、普通のSF映画にはない格調の高い雰囲気があります。
貴族映画っぽいことや、ノーマン・ジュイスンの正当な演出、SFガジェットを無駄に出さないこと、主人公の覚めたキャラクターが理由ですが、その中で書いておきたいのが音楽です。
この映画も「2001年宇宙の旅」(1968)や「未来惑星ザルドス」(1974)のようにクラシック音楽がメインで使われてます。バッハの「トッカータとフーガ」や「G線上のアリア」がハマってるんですよ。尊厳さと陰鬱さが出てます。
確かに、この映画は中二病が喜ぶ設定なのに、映画自体はその夢を外していました。
でも、ディストピア映画としては、とっても完成度が高いです。
ローラーボールという、架空の殺人ゲームを軸に据えたことで、娯楽性も十分に備えた(中二病向けではない)大人の映画というのが、この映画の正体でしょう。
昔の僕は、まだまだ大人じゃなかったってことですね。
この映画は歴史に残る大ヒットというわけではありませんが、設定が魅力的だったのか2002年にリメイクされました。
リメイク版は、時代は現代に、場所はカザフスタンに、主人公はプロのホッケー選手で巻き込まれちゃった系に変えられてました。
ローラーボールは金持ちマフィアが現地でやってるローカルスポーツっていう位置付け。ローラーボールが「大衆コントロールのための世界的な政治ツール」として使われてるオリジナルとはえらい違いです。
これ、もう別の映画ですよね?
当然、本質のディストピアはなし。
案の定、イマサンでした。
ゲームするアリーナもシンプルで、大きなオーバルコースじゃなくて、ちょっと狭いスケボーパークのような起伏のあるコースに変えられえていて、スケール感が失われてます。
中二病的な設定(ローラーボール)だけ取り出し映画にしてもダメだってことですね。
そう言えばマンガ「銃夢」(映画版は「アリータ:バトルエンジェル」2019)に出てくる競技モーターボールは、ローラーボールがヒントだったんだろうなって思ってるのは僕だけでしょうか?
ちょっと違いますが、マンガ「コブラ」の「ラグボール」も殺人スポーツという意味では影響があったんじゃないのって思ってます。
この映画もAMAZON PRIMEやNetflix、U-NEXTのサブスクでは見られません。
近所のレンタル屋さんにもなかったので、これもTSUTAYAの宅配レンタルで見ました。
ちなみに新品のDVDもちょっと高価な特別編のみ入手可能なようです。